今回は、有名なブランド牛についてご紹介していきます。
- 和牛や銘柄牛がうまれた史実の断片を知ることができる。
- 牛肉はいつから食べられるようになったのか。
- 牛肉を食べる由縁とは?
歴史の観点からみれば銘柄牛が何故評価されるのかがわかる。
日本の食肉に関して様々な誤解があります。
これを解くには、食肉の持っている栄養学的な機能を理解するとともに、日本人と食肉の関わりを、歴史的に知ることが大切です。
「日本人は西洋人と違って、穀類や野菜中心に摂ってきたため腸が長く、肉や油を摂ると体の変調をきたす」とか「最近の日本人の食生活は欧米化し、食肉や油をとりすぎて、野菜が不足している」といったことが語られています。
これらが本当に正しいか否か、銘柄牛が何故うまいといえるのか史実をみることも大切なのではないでしょうか。
古代人は何を食べていた?
日本の考古学の時代区分は、岩宿時代、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代へと続きます。
岩宿時代にすでに焼肉をしていたことがわかっています。
縄文時代、生活の中心は狩猟でした。地球温暖化により森林が増え、これらの樹木の果実である栗やどんぐりを好んで食べる鹿や猪が増えたからです。
しかし、狩猟だけが生きていくすべてではなく、海辺の人々は積極的に漁労をして魚介類を食べるようになり、また、クルミ、どんぐり、栗等の堅果類を採取して主食とする食生活が確立するようになりました。
弥生時代の特徴は水稲農業が導入されたことです。水稲だけでなく畑作も盛んで、ヒエ、アワ、野菜類も作られていました。
人類の農耕の歴史は、その採取時代の長さに比べるとほんの一瞬で、日本の農耕の歴史も弥生時代以降ですから、2千年ほどしか経っていません。
元来日本人は、穀類や野菜中心の食生活だから肉食が体に合わないという言い方は、人類史の矮小化にすぎません。弥生人は農業だけをやっていたわけでなく、農業で確保できない食料は狩猟や漁労で自然界から調達していました。
弥生時代のもう一つの特徴は家畜家禽(馬、牛、山羊、犬、猫、鷄、アヒル)が飼われたことです。しかし、これらは食用としてではなく、食用は狩猟によって得ていました。
仏教の肉食禁止
日本の食文化には、外国にない特徴があります。
それは、仏教の影響を大きく受けたもので、飛鳥時代後期に天武天皇が出した「殺生禁止令」、俗に殺生禁止令でその後12世紀まで歴代の天皇から繰り返し出されています。
しかしこれは表向きで、大衆の間では密かに鳥やうさぎをみなし鳥として食していました。奈良時代には、鹿と猪が食べられ、貴族は薬餌として乳製品を食べていたようです。
しかし、国民全体の栄養状態に影響するほどの量はなく、日本の慢性的な低栄養の大きな原因となったのです。
牛肉食のはじまり
室町末期から安土桃山、そして江戸時代初期までの日本の政治、経済、文化に大きな影響を与えたのは南蛮文化です。
西洋人が肉食の生活を持ち込み、織田信長の時代に肉食が日本で注目されるようになり、キリスト教の布教とともに、キリシタン大名たちは盛んに牛肉料理を食べていました。
しかしこれも長続きせず、1587年、秀吉によって出された「伴天連追放令」の中に牛馬を屠畜して食用に供することの禁止」が挙げられ、その後キリスト教禁止令や鎖国政策により肉食が定着することはありませんでした。
ただし、貴族や武士の支配階級の一部では「薬食い」として、肉食がごくまれに行われていました。その代表例が近江・彦根藩の「牛肉味噌漬け」で「養生肉」として将軍家に献上されたことが知られています。
これは江戸期の食肉史の中でも意外史の代表といえます。また、元禄・文化文政の時代には、ボタン肉(猪、山鯨)、もみじ肉(鹿)、さくら肉(馬)の鍋料理で親しまれていました。
牛肉食禁止の崩壊
1853年に鎖国を破る黒船が到来し、1858年の日米修好通商条約を締結したのを皮切りにオランダ、ロシア、イギリス、フランス各国と次々に調印、長崎、横浜、函館の各港を開きました。やがて外国人たちは、国内特に近畿、中古地方n和牛を神戸に集め、それを横浜に船で生きたまま移送しました。
その第一便は1865年といわれ、この年横浜山手と畜場が作られました。この牛肉が外国人の間で評判となり今の「神戸牛」のはじまりとなったのです。国内においても、幕末期、と牛場、牛肉販売店、牛鍋店がほぼ同時期に江戸の町にでき、牛肉食が普及、確立していきました。
明治新政府と肉食の推奨
明治期に入ると、牛肉食は文明開化の象徴のようにもてはやされ、新政府は種々の肉食奨励策を出ました。その結果明治10年頃には東京で牛鍋屋が558軒にもなりました。
当初は老廃牛を食べていましたが、肥育された近江牛が京浜地区に運ばれると上質牛肉として好評を得、鉄道輸送の開始とともに需要が拡大、山形からは米沢牛も東京に来るようになりました。しかし、明治後半には、牛肉は不足状態になりつつあり、それを補うため豚肉が登場します。
豚肉需要の増大
大正時代に入り、食肉需要構造が大きく変化し、豚肉の需要が急速に増大しました。日露戦争などの軍需拡大で牛肉が不足したためこれをカバーする意味で庶民の間に豚肉の旨味が認識され脚光を浴びることとなりました。
大正元年21万3千頭余りだった屠畜頭数が大正7年にはなんと3.6倍の7万6千頭が屠畜され需要の急速な拡大を裏付けています。そこには、供給側の事情、即ち牛より効率的な経営が営めるといった点も影響していたと思われます。
近代から現代
昭和20年の終戦頃までは、軍事優先の食料政策のため、定着し始めていた肉食の習慣も中断、昭和24年になって小売り店で食肉が買えるようになり、昭和30年代から米の増産とともに急速に肉食が一般化して、消費量も戦前を超えたのがこの頃です。
しかし、日本の食生活の改善が本当にスタートしたのは昭和40年代に入ってからです。昭和30年代の食生活が理想という人がいますが、米の消費量が増えただけで、動物性食品や油脂の摂取はかなり不足していました。
食肉、油脂、乳製品を積極的に摂るようになった昭和40年代中頃、日本人の平均寿命は男69歳、女75歳となり、現在では人生は80年時代を迎えています。食生活に食肉を上手に取り入れている結果ではないでしょうか。
・「食肉の知識」公益社団法人 食肉協議会
まとめ
日本には三大銘柄牛が存在します。
今や銘柄牛といえば認定されているものでは300以上に増え、何が良いのだろうかと思うほどわからなくなりました。
しかし、銘柄牛といえどもとを辿っていけばほぼ同一のものになってきます。何が良いのか?ということは歴史上の観点を見据えていけば、おのずと見えてくるのではないでしょうか。
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